Mailer Daemon
Artist statement, 25.5.2010 ; 11.4.2011改

友人が旅先から送ってきた絵はがきを読むとき、裏と表を見比べながら、すこしばかり自己満足の気も感じられる文を頼りに、その土地を夢想する。本当に友人は、そこにいる/いたのだろうか?あるいは、海外生活中の私が祖母に送った絵ハガキが2ヶ月後に宛先不明で戻ってきた時、誰でも祖母の身を案じてしまうだろう?(そして私はロンドンにいながら、自分で書いたロンドンの絵はがきを受けとってしまうのだ。)

どうやら絵はがきなどの郵便を通して送り届けられるものは、一直線に相手の元に届くものではないらしい。書き手としては一直線に相手へと向かっていても、その意図する方向を見えない介在者が遅延させたり正反対に曲げてしまったりする。そのことから伝達のベースとなる(仮想の)空間には、メッセージの内容を変質させてしまうメディエーターがいるらしいと考えた。

絵はがきというものを通すと、いくぶん具体的に介在者の姿が見えてくるように思える。それはたぶん郵便局の中におり、配達員のなかにまぎれ、区分機にとりつき、絵はがきの中に入り込み、風景の中に、切手の中に、ペン先のインクの中に、紙の中に染みこんで文字を読む人を浸食するかもしれない。ともかく、それは亡霊のように、目に見えないがそこらにいることだけは感じられ、まっすぐに進む伝達の意図を彼らが少しずつずらしているようだ。

私たちの意図から発せられたものが介在者を通過する。そこから相手に届くかどうかは、介在者の性質(だれかの判断であり行為かもしれない。時間の自然な経過かもしれない。場所かもしれないし、タイミングかもしれない。運だということもあり得る)による。彼らの立ち現れる場所と時は予測しがたく姿も判別しづらいが、決まって受け手と送り手の間に立ち現れて、私たちに影響をあたえる。

介在者はどのような姿なのだろうという疑問は、たいした問題ではないのかもしれない、かならずそこにいるのだから。さらにそのむこう側に、物事を捉えようと必死にもがく私——、屈折させられた光を反射させて照射する私がおり、その光がふたたび私たちの方に戻ってくるときに見えてくるだろう相手の姿をこそ見られれば。